「○○ってこうだよね」「いかにも~って感じ」
そんな言葉を言ったり言われたりしたことはありませんか?
自分がそんなふうに言われたとき、「そうかなぁ?」とニコニコしつつ、
「勝手に決めつけんといてよ」と内心反発を感じるときがあります。
本当はそうじゃない(少なくとも自分ではそう思っている)のに、いかにも分かってますって口ぶりで自分のことを言われると、ちょっとイライラする。
たぶん、誰かに自分をカテゴライズされることが好きじゃないんだろうな、と思うのです。
一方で、自分を分かりやすくカテゴライズして差し出すときもある。
たとえばファッション。「○○っぽさ」を意識することってありませんか?
「○○っぽく見えるファッション」って雑誌にもよく載ってますよね。
私ってこういうタイプ、カテゴリーの人間なんです、とパッケージすることで人から受け入れてもらいやすくする。仕事の場で、プライベートで、自分自身をカテゴライズして差し出していることに気づきます。
カテゴライズされることは好きじゃないと言いながら、自分自身をカテゴライズしている。なんだか矛盾しています。
そして、他人をカテゴライズしていることも多々あります。
カテゴライズするって分かりやすくて便利なんです。
でも、そのカテゴライズに引きずられていませんか?
「○○っぽさ」を意識するあまり、自分らしさ、を見失っていませんか?
物事を先入観で見ていませんか?
便利な分、カテゴライズから解放されるって難しいけれど、解放されたらもっと自由になるんじゃないかな、と思います。
そんなことを考えさせてくれたのが、「余命一年、男をかう」(吉川トリコ作)です。
主人公の唯ががん検診で子宮がんが発覚したことから始まるこの小説。男女逆転を感じさせる設定や登場人物のチャーミングさ(吉川トリコさんの小説にはチャーミングな人物が本当に多い!)が文章のテンポの良さと相まって面白く読めます。唯が他人をカテゴライズしていることを指摘した瀬名が、自分自身を分かりやすくパッケージ化(カテゴライズ)して差し出している。そして、「そういうのはもういいかな」と言ってそれを止める。その過程が二人それぞれの変化ともつながっている――
カテゴライズにとどまらず、ひとりで生きていくこと、つながり、フェミニズム等いろいろ考えさせられることも多いこの小説、おすすめです!
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